じゆうちょう

大切にしたいから、忘れないために書いてます。普通なことから小難しい話題まで。雑多です。

実写版『進撃の巨人』を見て原作の考察にスイッチ入った。

先月、WOWOWで『進撃の巨人』の実写版をやってまして。今でも大人気のこの『進撃の巨人』が実写化になるってんで、当時は公開前なのにあり得ないくらいの酷評、そして関係者の方々のコメント炎上だのと、色んな意味で話題となったこの映画。

ボク自身も漫画やアニメの実写化にはどちらかと言えば反対しているほうなので、この進撃の実写版もそこまで興味はなかったんですが、やっぱり観ないことには物も言えないので、一応前編だけ観ました。

感想としては、うーん……これはファンが怒ってもしょうがないかな、と。巨人の迫力は予想以上にすごかったです。あの不気味さや恐怖心を煽る演出、人間を喰らいモグモグするシーンなどは、思わず観ながら食べていたピザをそっと皿に置くくらい気持ち悪かったです。

作ったスタッフや監督さんたちにはこの作品について各々特別な思いがあるようでしたが、前編を観た限りでは「やっぱ人気に便乗しただけだったのかな……」と思わざるを得ない、そんな作品でした。

まあ、実写版の話なんて良いのですよ。話したかったのは実写版映画のことではなく、それによって進撃スイッチが入って、原作が金銭的な問題で13巻で止まっていたボクの心に火がつき、映画を見終わったあと気づけば本屋で14巻~19巻を手にしていました。

どうやら今月の9日に最新巻の20巻が発売されるようですね!それを待ってからまとめて買っても良かったな。もう続きが気になって仕方なくなっちゃって。もう一度本屋に足を運ばねばなりませんな。

 

さて、今でもネットでは作品中に散らばる伏線や謎の解明・考察が色んなサイトでされていて、ボクも好きでよく目を通しているんですが、ボクが個人的に気になっている点やボクなりの考察と言いますか、妄想をね、今日は書いていこうかと思っています。

まあいつもの事ながら、あくまで個人の妄想ですので、深くは捉えないようお願いいたします。それとコミックス19巻までのネタバレがありますので、そこまでまだ読んでいないorアニメ派の人はブラウザバックをお願いします

あとは自己責任で。

 

 

色々この作品では気になるところが沢山あるのですが、その中でも気になりすぎている部分、そこをちょっと掘り下げて考えてみようかと思います。

 

【エレンの父親の正体】

調査兵団のキースがエレンの父親・グリシャを助けたということですが、そのグリシャが発見時、自分の名前と職業以外の記憶がなかったという点。記憶が無いと聞くとレイス家の存在がふと頭を過ったんですが、そこら辺はどうなんでしょうか。

でも見た感じ、服装などがボロボロで汚れていて、巨人に襲われない限りは昨日今日で壁外へ出たとして、そこまでなるかな?という印象。巨人に襲われていたらその時点で生きているのは奇跡中の奇跡でしょうし。

そして、記憶を失くしているせいか、調査兵団のことも壁中の人々の暮らしも知らなかったとなると、そこでまた過るわけです。あの猿の巨人のことが。

あの猿の巨人も立体機動装置を知りませんでしたよね。壁内で暮らしていれば知っていて当たり前のことを知らない。ということは、猿もグリシャも元々壁外の人間か……?

 

ライナー(鎧の巨人)、ベルトルト(超大型巨人)、ユミル(の民)の関係性と正体】

ライナーとベルトルトは確か途中から巨人になったんですよね。本人が「巨人の力を手に入れた」と言っていましたから。ということは、元は"ただの人間だった"ってことですよね。それが何かのきっかけ(猿のお陰?)で巨人化ができるようになった。

じゃあユミルはどうなんでしょうね。「60年間もの間、巨人として壁の外をさまよっていた」と言っていましたが、60年前は?

またユミルは「ただ存在するだけで憎まれたんだ。私は大勢の人のために……死んであげた」と言っています。この「死んであげた」というのが引っかかっていて、憎まれてるのを分かっていたから死んでやった、のか、それとも自分が犠牲になることで大勢の人が幸せになることを分かっていて喜んで死んであげたのか。

OVAのほうでも『ユミルの民』というのが話題になっていますが、残念ながらOVAの方は未観賞なのであまり詳しくは分からないのです。色んなサイトで北欧神話との関係性や「ユミルの民」発言をした巨人の頭を垂れた奇怪な行動、などの情報はちらほら見かけましたが、むむう。

でもその「ユミルの民」というのが一部の者にとっては尊い存在で、でもその尊い存在が"居るだけで憎まれた"ということは、ヒストリアのような王家の血筋に匹敵するほどの者なのか、王家などではなくとも何か特別な力を持つ一族のひとりだったとか、少なくともそういう存在である可能性があることが伺えますね。

そして「死んであげた」という言葉が文字通りの意味ならば、その後どうやって生き返り、巨人として過ごした時を経たのかが気になります。もしそれが文字通りの意味で無いとすれば、そのあとの「もし生まれ変わることができたなら……」という言葉は続かないでしょうしね。

 

【マルコがライナーたちに見捨てられた際のライナーの言葉】

マルコが亡くなる直前の話で、マルコが「まだ……ちゃんと話し合ってないじゃないかぁあああ……」と切なく声を上げる背後から、ひとりの巨人が迫り、マルコが捕食されてしまう。その光景を離れたところから見ていたライナー、ベルトルト、アニだったが、そこでライナー放った言葉。

「マルコが喰われてる……」「オイ……何で……マルコが……喰われてる……」

まるでさも予想外なことが起こったかのように言うのが、何か引っかかります。

何でマルコが喰われることに疑問を持つんでしょうか。

ライナーたちがマルコの立体機動装置を急いで外していたのは、もうすぐそこまで巨人が迫ってきていたからですよね。ギリギリで立体機動を外して3人は無事逃げられたわけで、そこでマルコが巨人に襲われれば、ライナーたちの秘密を知ったマルコが消えるわけですから3人にとっては都合が良いはずでは?と。

ついでに言えば、ゲスいですがマルコが標的になったわけですから、自分たちがすぐに襲われることは回避できたので良いのでは?と。

でもライナーたちは知ってたんですよね。

『巨人は巨人化できる人間を喰って人間に戻る』と。

まず狙われるとすれば、巨人化できる自分たち3人。だから実際、立体機動を外すのを急いでいた。自分たちが喰われてしまうと思ってたから。ただの人間のマルコが喰われることは無い……そう思っていたのに、マルコが目の前で無残にも喰われてしまったもんだから、驚いて思わずその言葉が出たんじゃなかろうか、と。

マルコが喰われた真相は分からないですけど、巨人が"無駄に人間を捕食することは無いという確証"は今のところはなかったはず。もし巨人自体が、巨人化できる人間とできない人間の区別がつかない場合、片っ端から喰っていく方法しかないから、マルコもその"片っ端のひとり"になった可能性はある。

ただそうなると、なぜライナーがそんなに驚くことがあるのだ、と。区別ができない巨人が居ることを知らなかった?いや、そもそもライナーたちも誰が巨人化できるかなんて分からないとかか……?

それとも、マルコが実は巨人化できる人間だった、とか?

ライナーたちはマルコがただの人間だと思っていたけど、マルコが実は巨人化できる人間で、巨人もそれを知っててマルコを食し、その事実を知らなかったライナーたち(ライナーだけ?)が驚くこととなった、というのはどうでしょうか。

 

【巨人になった人間は巨人化できる人間を捕食することで人間に戻るという真実】

まあ先ほども書いたのですが、もしこれが真実だった場合、そして巨人が人間に戻るためだけに人間を捕食している場合、この壁内の人間のほとんどが"巨人化できる人間"ということになってしまいませんか。だって、エレンの母親とかハンネスさん、マルコやあのカップルとか調査兵団の方々もたくさん(リヴァイ班やミケ、ナナバ、エルヴィンの腕など)捕食された対象はいくらでもいます。

上のマルコのことでも書いた通り、巨人が、巨人化できる人間の区別が難しいのであれば、片っ端から喰っていくやり方で、喰って人間に戻ったら当たり、という方法で判断するしかないと思うんです。その場合は無差別でも仕方がない。

ただ、そもそも巨人という生き物が、個々の強さのレベルとは関係なく、巨人化できる人間の区別ができるのであれば、先々で亡くなっていったキャラクターたちみんなが一気にキナ臭くなりますね。

で、これはボク自身の仮説・妄想なのですけど、元々壁内にいる人間たちが巨人化できる人間で、その人間たちを隔離するために、記憶の改ざんができるレイス家の巨人を使って、巨人化できる記憶をもろとも失くし、人間たちを閉じ込めたならば?

それで考えると、壁外の者という可能性がある猿の巨人、ライナー、ベルトルト、アニなどは、その壁中の人間たちの"監視役"なのでは……?

100年間、平和だったわけですよね。超大型巨人が出るまでは。でもそれまでに調査兵団が壁外へ繰り出し、巨人の情報を集め討伐することに躍起になり始めていた。それを危機と察知した猿含めライナーたちが、けん制のために襲ってきた……とか。

個人的にベルトルトのセリフが気になっています。

エレンをライナーたちと拉致ったときに、エレンを助けに来たアルミンに「悪魔の末裔が!」と罵倒しましたよね。でも、シガンシナ区奪還の際にアルミンと対峙したベルトルトは「君たちは誰も悪くないし、悪魔なんかじゃないよ。でも全員死ななきゃいけない。もうダメなんだ」と言った。

この矛盾はたぶんベルトルト自身の成長を表しているのだと思うんですけど『悪魔の末裔』というのがどうも引っかかって。"ただの人間"がなぜ『悪魔の末裔』なんだろう、と。この世界で悪魔的存在というと、ザックレー総統と巨人しか思い浮かばない。

まあ、ザックレーは関係無いとして、ということは巨人しか残っていないわけで。

壁内の人間が元々は巨人化できる人種で、ライナーやベルトルト、アニは後から巨人の力を授かった側ということは、元々は人間。で、対巨人化人間のために人工的に巨人になって、戦士として闘う人工巨人軍団だったんじゃないか、という妄想。

 

【レイス家の巨人の力を代々受け継いだ王たちが、巨人と戦わず巨人に支配されるほうを選ぶ理由】

これは上記の仮説に基づいた推測ですが、レイス家は人工巨人なのではないかと思うんです。あの怪しい注射器が作中に度々出てきますが、今のところあれを使っていたのはヒストリアの父親・ロッド・レイスとエレンの父親グリシャですよね。

で、ボクの中ではグリシャは壁外の人間という疑いがかけられています。ということは、あの注射器を使っていたロッド・レイスも実は人工巨人軍団の一族だったんじゃないかと。でもロッドさん、最初「私は巨人になれない」みたいなこと言ってましたよね。あれもちょっと気になっているんですが……あの注射器の中身に相性みたいなものがあるんでしょうか?パッチテストでダメだったとか。

でも結局巨人にはなってましたよね……見た目は、早すぎたんだ!腐ってやがる!みたいな感じでしたけど、そこはまあ置いといて。

もしですよ、今の壁内の人間たちが巨人化できるタイプの人間、いわば『天然巨人』だったとして、100年前に今と同じような出来事が立場が逆転した状態で行われていたとしたら……?

簡単に言いますと、今のエレンたちの立場が今の巨人の立場だったということです。

そして今の『人工巨人』とされている猿やライナーたちの立場が今のエレンたちの立場だったら、ということ。人工巨人軍団は元はただの人間で、天然巨人軍団の恐怖で支配されていた、と。

そして今と同じように長い年月をかけて巨人と戦い、仲間や家族が巨人たちの手によって失われた過去があり、今と同じようにその苦しみを終わらずべく、血を流して戦い、やっとの思いで壁内に隔離することに成功したとすれば……?

隔離する際、レイス家の記憶の改ざんを使って、天然巨人たちの記憶を操作し、巨人化ができることを忘れさせることができたとすれば、巨人と戦わず壁内で平和に暮らすほうを選ぶのではないかと思ったんです。

レイス家が人工巨人であれば、今の敵である壁外の巨人は元は仲間だから、別に戦う理由も無いと。レイス家の王の意思を受け継いだ歴代の王って、みんなして死んだ魚のような目をしているんですよね。疲れた目というか、まるで全てを見てきて悟ったような顔というか。初代王のそれまでの壮絶な記憶か何かが自らに宿った結果なんでしょうかね。

 

これでボクの妄想は一旦終了です。色んな考察を見ていて、作者がマブラブをパクりましたー!と公言しているので、マブラブ路線で考察を進めている人が多いのですが、ボクは有名鬱アニメ『ぼくらの』みたいな要素が入っているのではないかと思い、こんな妄想まで至りました。

長かったですね……さすがにボクも疲れました。

そろそろおやすむことにします。では。

 

 

 

おわり。

"上出(うえで)"様。

ちょっと前の話なんですけど、某回転ずし屋さんに行きまして。普段からも行ってるんですけど、その日の会計は全て会社持ち。いわば社長の奢りだったわけです。

でも社長は一緒には言ってなくて、奥さんと一緒に行っておいで、と社長が言ってくれて、相方さんと2人で出向いたわけなんですね。

 

美味しい寿司を満腹食べ、さあ帰ろうかとなって。

気分は最高なわけですよ、領収書を切ってもらえるってんで。

で、レジに行き、会計を済まし、言いました。

 

「領収書もらえますか」と。

 

レジの若いお兄さんは「了解しました」と。

そしてペンを持って準備万端になったところで「宛名はどうされますか?」と聞かれ、ボクらは「上で」って言ったんです。

 

するとお兄さんは、

「うえ、ですね……上は上下の上で良いですか?」と聞くんです。

一瞬こちらも「ん?」と思ったんですけど、うんいいよ、と。

「上」と書いたところで貰おうかと手を伸ばそうと思ったら、お兄さんが謎の質問をするわけです。

 

「"で"はどういう漢字ですか?」と。

 

こちらは当然「えっ」となるわけです。

それでもお兄さんは続けて「出るの"出"ですか?」と聞いてくるんです。

その質問の意味が分からなくて、レジのお兄さんとボクら3人で暫しの沈黙が流れます。ボクらも頭の中で並べてみるわけです。

 

上下の""と出るの""を。上…出…、上出……?

ああ! 上出(うえで)様、ね!と。

 

その意味に気づくと、笑ってしまっては申し訳ないと思いつつも、ニヤニヤが止まらない訳ですよ。で、ニヤニヤしながら「いや"上"だけでいいんだよ」と伝えると、今度はお兄さんがえっ……えっ?と、どぎまぎ。

そうなんです。レジのお兄さん、領収書の書き方が分からなかったんですよね。

上だけでいいっていうのも、もしかしたら「"上"だけの苗字の人が居るのか!?」とでも思ったのかもしれませんね。

「うん、もうそれでいいんだよ。ありがとう」と言ってこちらが手を伸ばすと、あたふたしていたお兄さんは、そこで初めて「上様」で良いんだということを理解したようで、恥ずかしそうに笑いながら領収書を渡してくれました。

 

相方さんと店を出てから、時代だな~とひとしきり笑いまして。

そうですよね。今の時代、しかもチェーン店で領収書切る事なんて、滅多に無いだろうなあと。

これは決して、店がちゃんと教育してないとか、そういうことを言ってるわけではなくてですね。教育してなくて当たり前。だって今時、経費で回転寿司行くってそうそう無いと思うんですね。喫茶店とかならまだありそうですが、今の時代に経費で落とすこと自体、もう無いんじゃないだろうか。

だから、レジの人に領収書の書き方を知らない人が居てもおかしくはないよなあ、と。

 

意外なところで、自分も年くったなあと感じた、そんなお話でした。

 

ではちょっと短いですが、今日はここまで。

 

 

 

おわり。

パソコン買いました。

昨日、日本橋のほうへ行ってきました。目的は、PC購入のため。やっとですよ!やっとのことでPCを買えるところまで辿り着きました。いやー、長かった。

去年の冬辺りでしたか、ノートパソコンがお逝きになったのは。その前はいつだったかな、デスクトップパソコンが昇天したのは。ほんと、どんだけ壊すねんて話ですよね。

昔から機械との相性が悪く、外付けHDDの故障から始まり、ノートのディスプレイの故障、その後マルチディスプレイにしていたPCモニターの故障、PCがデスクとノート2台の故障、そしてスマホ1台(でもこれはただのバッテリーの寿命だった)。

あまりにも故障が多いので、相方さんに「お前なんか変な電波出してんじゃないの?」とか言われる始末。出してないよ!でもブラウン管のテレビは、音が無くてもテレビがついているのが分かる変なヤツだった。……これは関係ないか。

まあとりあえず、色んな店に立ち寄って話を聞き、5万円以内でノートパソコンを無事購入することができました。本当はデスクトップのほうが好きなんですけど、デスクトップにするとその場から動かなくなるんですよね。何もしなくてもPCの前にいるだけで安心感を得られるというか。

あと、デスクトップを買うならやっぱりね、タフで性能の良いのがほしいんですよ。PCゲームもできるくらいの。でもそんなものを買うとほんと動かないので。仕事とかマジで行きたくなくなるので……。近い将来は欲しいですが、今の生活環境でそれを買ってしまっても、PCゲームなんぞ買っても仕事が忙しくて満足にできない、うー!うー!とか言ってるうちにPCの寿命が来てしまいそうなので、やめました。せっかく高くてタフなヤツを買っても宝の持ち腐れにはしたくないですもんね。それと、ボクが動かなくなるので(3回目)。

PCがまだご存命のときは、スマホを触りませんでしたしね。アプリだってそこまでやってなくて、調べ物つったらスマホではなくPCでググる、気になる記事を見つけたら読んで、そこからまた気になる記事を見つけ飛んで、見つけ飛んで見つけ飛んd……の繰り返し。ゲームはゲームで3DSPSPがありましたから、スマホは本当にただの連絡ツールでした。

PCが息を引き取ってからは、スマホを触ることが多くなりましたしアプリゲームも複数やるようにはなりましたが、毎日のように触っていたものの、全くと言っていいほど慣れなかったことがあります。それが『スマホでの文字打ち』。

できないことはないんです。ただ、PCに慣れてしまうとやはり気になってしまうのが画面の大きさ。それはガラケーの頃からそうで、一度PCを触りキーボードで文字を打つ楽さ・快適さを経験してしまうと、どうしても携帯に手が伸びないんですよね。

あの小さな画面に小さなボタンをポチポチ打つ面倒くささは、本当に慣れぬのです。一応「フリック入力」なるものを練習して習得はできました。ですが、これはボクだけかもしれませんが、とにかく誤字が多くなる。

指先が触れるだけでポッと文字が簡単に出てきてしまうので、文字を打つことに一生懸命になっているといつの間にか「~なんだよね、。」と句読点を続けて入力してしまい、そのことにも気づかずそのまま送信してしまったり。他にも予測変換の一覧をスライドしたつもりが、指が当たった場所にあった予測変換を押してしまって、いつの間にか打った覚えのない単語がひっそりと紛れ込んでいる、という事件が多発するという。

キーボードだとそんな変なことにならないじゃないですか、キーをむやみに連打しなければ。特にLINEとかやっていると、いわばあれはチャットなので、返信が来るとすぐに返事をしなければいけないと焦るわけです。するとどうでしょう、ボクの返した文章が「に、日本語でおk」状態になるわけです。どうしてこうなった。

 

今はこうして、おニューのPCで文字を打ってるわけなんですけれども、やっぱり快適さはこちらのほうがダントツですね。最初スマホを持った時は「フリック入力とかいらねーしww ここはPC勢らしく、ローマ字打ちで(ドヤァ」とか思ってたんですが……あまりのキーの小ささに断念。その後すぐに何食わぬ顔でフリックに路線変更しました。

昨日も相方さんと少し話していたのですが、やっぱりPCとスマホは比べるもんじゃないですね。スマホにはスマホの良いところがありますし、PCにはPCの良いところがあります。ただ、スマホの代わりはPCで代用できますが(通話手段が少し問題ですが)、スマホにはPCの代わりなんてとてもじゃないけど無理です。

スマホで事足りてしまう人というのは、元々PCの使用頻度が少なかったのではなかろうかと。ボクからすると、スマホというのは連絡手段が備わったただのゲーム機に過ぎません。3DSSkypeが合体したような感じ。あくまでもゲームがメイン。だって連絡するだけならばガラケーで十分ですもんね。

 

今回ボクが購入したのは『MB-B501E』というマウスコンピューターから発売されたノートパソコンです。マウスコンピューターというメーカーは初めて見聞きしたんですが、なかなかに良いものを作ってらっしゃるのですね。完全に素人目でも分かりました(胡散臭くて申し訳)。

幾つかの店舗に立ち寄り、店員さんオススメの物を見せてもらったり話を聞いてきたんですが、前々から気になっていた「HDDとSSDの違い」というのも教えてもらいまして。HDDはディスク型、SSDUSBメモリ(のような)型らしいです。

ディスク型はその名の通り円盤なので振動にはすこぶる弱かったけど、SSDUSBメモリだから無問題だとか。あとは、データの読み込みや書き込みの動作がやレスポンスなどがHDDに比べてスムーズで早い、ということも聞きました。

他にもCore i7を積んだ良い物(その代わり値段もそこそこ)もオススメされたんですが、ボクの場合は繋ぎのPCが欲しかったんですよね。後々もっとお金が貯まり、仕事のほうも落ち着いてきたら良いのを買いたい、っていう。だからそれまではこうやって文章を書いたり、動画を観たり、音楽を聴いたりスマホと同期できたりできるものがただ欲しかっただけなんです。

これまでは相方さんのPCを使わせてもらっていたんですけど、やっぱり人の机って使いづらいですよね。散らかさないようにキレイに使わなきゃいけないって思ってしまうし、作業スペースがそれだけ狭まってしまうわけですから、ちょっと肩身が狭いんです。やっぱりね、自分専用の机が欲しいですもんね。

 

というわけで、これで少しはこのブログも更新しやすくなったかな?と。まあ、しやすくなってもネタがなけりゃ書けないんですが。グラブルはちゃんと動くだろうか……まだ試してないんですが。PCでも重いグラブルですから、それで我がPCが熱暴走でもしてしまったら嫌なので気を付けながらやりたいと思います。

 

それでは今日はここまで。

 

 

 

おわり。

言葉選びもセンスが大事。

なかなか更新できませんなあ。

仕事は今月はそんな忙しくないので、時間も書きたいことも山ほどあるんですけどね。なんか最近自分の文章が気に入らなくてですね……。

何というか、偉そうに見えるというか、上から目線で言っているように見えてとても嫌で。冷たく見えるというか、なんか言葉の節々に棘があるように感じる、そんな今日この頃。今まで書いた記事を全部消したい衝動に駆られています。

言葉には一応気をつけてるつもりではいるんですけど、後から読み返したら自分で引くくらい「酷いな……」と感じてしまいます。

こういうのって考え出したらキリがないんですよね。負のスパイラルって言うんでしょうか。元々このブログが万人に受けるとは思ってはないんですが、できるだけ読み手が不快に思わないように、そしてやはり基本は活字ですから、少しでも読みやすいよう心がけているつもりなんですが……。

まあ、教養も語彙力も無いので、難しい言葉を使いたくても、そもそも知らないから無理なんですけどね!

そしてふと、前のブログはどんな感じで書いてたかなあ、と。

 

今まで幾つか転々とブログのお引越しはしてきてますが、一つ前のブログは今より関西弁が多かったと思います。ボクの地元が関西なので文字に起こす時も普通に使ってたんですが、なんか最近ネットで嫌われてますよね?関西弁。文章にまで関西弁を使うな!と。最近になってよく見かけます。

まあ確かに文字に起こすと方言というのは少しくどい気がします……が、ボクは友達とLINEやメールなんかでは文字でも関西弁なんです。話し言葉とも言いますかね。友達も同じです。両親や従兄弟などもみんなそうです。話し言葉で文字を打つので、文章も関西弁。

昔、熊本に知り合いが居たんですけど、その子もメールの文章は熊本弁でしたね。だから方言がある地域は文章でもある程度方言が出るものだと思っていたんですが……ネットでは控えたほうが良いのか、と最近の風潮を見ていてそう思って、このブログでも関西弁はネタ以外では使わないように心がけてはいます。

ただ、標準語なんて普段は殆ど使わないので……そのせいか、やっぱり言葉の選び方の問題なのでしょうかね。なんか冷たいなあって思うんですよね。個人的には関西弁が混じったほうが、やっぱり多少なりとも言葉に柔らかみが出る気がするのですよね。まあこれは関西の人間だからそう思うだけなのかもしれませんが。

でも勘違いしないで頂きたいのは、実際「口が悪く怖いコテコテの関西弁」は一般人はあんまり使いませんよ。よしもと新喜劇とか漫才などで使っている関西弁は、どちらかと言えば"TV(芸人)仕様"と言ったほうが正しいかもしれません。

名探偵コナンで言うところの服部みたいな。関西弁として聞けることは聞けるけど、ちょっと強調して言ってる。普通に話す時はあんなに大袈裟にイントネーション上げ下げしないよ、って。ちなみに、あくまで個人的な意見ですが、コテコテ加減で言ったら大阪より奈良のほうが関西弁のイントネーションは強い気がします。

 

てか、関西弁の話をしたかった訳じゃないし。

 

話は戻りまして……ブログというのは不特定多数の人が見るものですし、もう少し文章には気をつけたいところ。言葉選びは本当に難しいですが、文章を書くのが上手くなるにはやっぱり活字を読んで勉強するのが一番なのでしょうかねえ。

実はボクこういう書き方はした事があまり無いんですよね。気持ち丁寧にした文章と言いますか。標準語を使わないので当たり前っちゃ当たり前なんですが、どちらかと言えば、基本話し言葉でずっと書いてた気がします。そっちのほうが思ったことをそのまま書けるので。

やっぱりそっちのほうがいいのかなー。どうなのかなー。

顔文字使えばお手軽なのは知ってますし、実際ボクも若い時はブログでも使っていました。言葉もふんわりして全体的に柔らかくはなるんですが、最近になって年齢のせいでしょうかね……なんか顔文字入ってると文字が読みづらいんですよね。

LINEとかでも、あまりにも顔文字が入ってるとちょっと見づらい気がします。目が悪いせいかな?眼鏡買ったら何とかなるんでしょうかね……。

 

ま、物は試しってことで、もう少し言葉にふんわり感を出せるよう気を遣っていきたいですね。書く内容が重めなものばかりなので、特に気をつけていきたいです。

 

 

おわり。

ある音ゲーマーたちの話。

ボクは今スマホアプリでいわゆる『音ゲー』と呼ばれるゲームをやっています。可愛い女の子たちが歌って踊ってくれてる中、ポチポチとタッチしていくやつです。腕はなかなか上達しませんが、下手の横好きと言いますか、今のところ楽しくやれています。あるひとつを除いて。

そのひとつというのは、ボクは昔アーケードゲームで有名な音ゲーをやっていたことがあるんですね。9個のボタンをポチポチ押すやつです。全体的にカラフルな。そうアレです。

最初は友人がハマってて、楽しいから一緒にやろう、と誘ってくれたのがきっかけ。そこからボクも見事にハマり、それもそんなに上手くはなりませんでしたが、大好きでした。

ですが、ボクよりも圧倒的にハマりこんでしまった友人は、時間があればゲーセンに通いつめ、そのゲームに勤しんでいました。その結果、上級者レベルにまで到達するほど上達した友人。好きこそ物の上手なれ、とはまさにこの事ですね。

ボクとの腕の差は明らか。それでも変わらずボクを遊びに誘ってくれて、ゲーセンでゲームをする日々を送っていました。

しかしある日、近所のある店の上にゲーセンが新しくできたんです。そこは音ゲーが充実しているゲーセンで、某9個のものはもちろん、ギターだったりドラムだったり円盤だったりと、それはもう盛り沢山で。他にも太鼓やダンスのやつもありました。

すると一気に、今までどこにたむろしていたのか……音ゲーマーと呼ばれる方たちがこぞって集まってきて、主に音ゲーマーの交流の場となったわけです。

そこに友人が通うようになって、しばらくしてから、友人から「今度からそのゲーセンに行こう」と誘われて。今まで行っていたゲーセンは規模も小さめで、どちらかと言うとビデオゲームが主流だったため、完全に音ゲーにハマっていた友人にとって、新しくできたゲーセンは天国のような場所となったわけです。

それからというもの、その新しいゲーセンに2人で通うようになるのですが、ボクが一番最初にゲーセンに行ったとき、バイトが終わってからなので夕方だったんですが、人が数人しかいなくて。

でもその数人は、既に友人とは常連仲間くらいの仲になっていました。来て早々友人は、休憩スペースの誰も座っていないテーブルの上に自分の鞄を置き、座りもせずそのまま音ゲーコーナーへ直行。

ボクはその友人の横に立って、友人のプレイを大人しく見ていたんですが、終わると次はドラムのほうへ行き、プレイ。いつの間にかドラムができるようになっていたんですね。

そして次はギター。これもなかなかの腕。そして次に円盤。これもそこそこ。てか、譜面のスピードが早すぎて譜面が全く見えなかったです。そしてふと周りを見ると、いつの間にか人が多くなっていて。客層は比較的若い層ばかりで、大体が中~高校生から少し上。社会人もいましたがみんな20代前半でした。

そこには各々好きな音ゲーをプレイしているのですが、みんなすごく上手くて、平均で上級者レベルの人ばっかりでした。

そこで思ったんです。「ああ、ここはガチの人たちばかりなんだ。ボクみたいなレベルのやつは場違いなんだ」と。

それでも一応、通ってはいたんですけど実際、意識高い系の人が非常に多く、ボクの腕がなかなか上達しないことを指摘されたり、ちゃんと練習してる?と高圧的な態度で接して来られたり、腕の差も歴然だったので話が合う人もいなくて。

だからといって、普通の世間話をしても無視されたり、避けられたりすることが多々あって。一度友人に「あそこのゲーセンの人たちは、ゲームが上手い人としか仲良くしないのか?」と問うたところ「そんなことはないと思うけど、アドバイスはしっかり聞いたほうがいいと思う。ゆまるのために言ってくれてるんだから、期待に頑張って応えてないと判断されれば、愛想はつかされちゃうかもね」と言われました。

ボクはただ、ゲームを楽しくプレイしたかっただけなのに、いつの間にかガチの人にスパルタ教育をされて『俺らのアドバイスで上手くならないと、仲間外れにするぞ』というプレッシャーをかけられて、大好きだったゲームが全く楽しめなくなってしまいました。

中には、スコア重視の人を「スコアラー」、クリア重視の人を「クリアラー」と決めつける人まで現れたり。

ちなみにボクはクリアラーだそうです。曲をクリアしたら満足するタイプだそうです。スコアラーは、最高記録更新に重きを置いているので、1曲1曲の質が上がる=上手い人ということになるそうです。

結局、そのゲーセンで仲良くなれた人は誰一人としていませんでした。


そんなことがあり、徐々に音ゲーをしなくなったのですが、アプリなら腕前を直に監視されることもないですし、ひとりで黙々と楽しめるのでだいぶ気が楽ですね。

でもやってる最中に、ゲーセンに通っていた頃のことを必ず思い出してしまい、MISSをするたびに、当時背後からずっとボクのプレイを眺め呆れた顔をしていた常連の人たちの顔が浮かぶんです。

もう一種のトラウマ状態になってるんでしょうね。今でも1曲でPERFECT(MISS無し)ができないと、まるで自分がダメな人間のように思えて辛くなります。なのに、やっぱり好きだからやってしまい、思い出して辛くなる、その繰り返しです。楽しいんですけどねっ。


何といいますか、これはゲームに限った話ではないのですけど、それを楽しむために集まっているはずなのに、最終的に一番重要なのは"人間関係"になってしまうものは、早々に身を引いたほうが良いと思います。

仕事ならば、人との関わり合いですから人間•上下関係は重要ですが、ただの遊びの腕前だけで関係が左右される環境ははっきり言っておかしいと思います。

結局ボクは、元々通っていたゲーセンに戻り、やらなくなるまではずっとそこでゲームをしていました。そのゲーセンには、元々ガチ勢が集まるほうのゲーセンにいて、ボクと同じようにガチ勢のガチっぷりにドン引きした人たちが避難しに集まってきていました。

その人たちとはやっぱり気が合ったのか、すごく仲良くなれましたよ。それにみんな音ゲーだけじゃなくて、格ゲーもシューティングもすごく上手なんです。基本的にゲーム自体が好きな人たちで、純粋にただゲームを楽しみたかっただけの人ばかりでした。

時々「スコアラー•クリアラー差別」をした人も偵察?で来たことがありましたが、その人は「ここはクリアラーの人が多いんだね。向こう(ガチ勢のほう)はスコアラーが多いんだよ」と再び勝手な持論を語り出すので、厳ついビデオゲームの常連勢と店員に追い出されてました。

楽しみ方は人それぞれです。ハマってガチ勢として楽しむも良し、ただ好きなものを気軽に楽しむのも良いんです。でも、その楽しみ方を勝手に決めつけて強要するのではなく、大切なのはその人の楽しみ方を理解することなのではないでしょうか。

自分の物指しだけで物事を見るのではなく、人の数だけ物指しがあることを理解して、上手く住み分けができるように心掛けるのが大事なのだと思います。

その後友人とは数回会いましたが、行動範囲が分かれたからか、いつの間にか疎遠になってましたね。共通の知り合いに聞いたのですが、どうやら友人はそのゲーセンの店員となって、開店する前や閉店後を利用して音ゲー独り占めし放題の生活を送っているようでした。やっぱガチ勢ってすごいですね。




おわり。

グラブル、再熱。

今日は久しぶりにグラブルの話でもしましょうか。もうだいぶ長いことグラブルの話題は出ていなかった訳ですが、原因はボク自身少しグラブル熱が冷めてしまっていたからなのです。

ボクが思うグラブルの魅力というのは、イベント関連のストーリーの良さと魅力的なキャラクターです。でも最近のグラブルはストーリーにもあまり力を入れているとは思えず、キャラクターも属性が偏っている上にそこまで「欲しい!」とは思えず。

しかもイベントで貰えるキャラクターって、言っては悪いですが弱い気がするんですよね、武器アリのキャラクターたちと比べて。ボクの気のせいなんでしょうか。それともやっぱり専用の武器が無いから?全部が全部ってわけでもないですが、何かのコラボイベントで貰うキャラ以外は正直、貰ってもボクの腕では扱える気がしないのです。

なので最近は、イベント関連は選んでやるようにしています。元々、コレクション魂のようなものは持ち合わせていないので、モチベーション的にはすごく楽になりました。そしてここ何ヶ月かはコラボイベントが多く開催されており、しかも個人的に馴染みのあるものばかりで(サクラ大戦とかテイルズとか)やる気が再び戻って参った次第であります。

 

そしてそして、何よりも、やっと全属性にSSRのキャラがスタメンに入るようになったのも大きいですね。今年の正月辺りから、何やらガチャの出が良くてですね。確率UPしているキャラたちがなかなか引けないのは少し悔しいのですが、大してUPしていないであろうキャラたちの引きはそこそこ良くて。

ちょっと見てくださいますか(※画像が少し大きいかもしれません)。

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これ、入手順に並べたキャラ一覧なのですが(見にくいですが下からどんどん新しくなっています)、1枚目の画像の一番下のメーテラさんからもう既に始まっていたんです。その後にサンタラカムがいますので、もしかしたら去年のクリスマスから調子が良かったのかもしれません。メーテラさん後、アンリエッタGET。それまで火力がイマイチだった風属性が一気に強くなりまして。

正月イベントでアニラを貰った後に、たぶん正月ガチャをしていますね。そこで一気にSSRを3人もGETできたんです。ヴァンピィ・サルナーン・カリオストロ。確か、ヴァンピィとサルナーンが1回のガチャで出て、その後もう1回ガチャしてカリオストロが出たんだったかな。正直ウハウハでした。

その後はしばらく回していないのですが、ヴィーラとソフィアは確か、1枚だけ持ってたレジェンドガチャチケットで引いたものだと思います。その時はレジェンドガチャチケットでSSRなんて出るんだー、ってビックリしましたね。ずっとレアとかSRでも召喚石とかばっかりだったので。

そして、つい最近ですかね?水属性のキャラ確率がUPしていた時に、リリィとアルタイルをGET。本当はリルルちゃんが欲しかったのですけどね……それでも2人も出たので十分です。

そんな訳で、各属性のパーティが一気に潤いまして。ですが、この画像を見て気付く方もおられるでしょうが、一向に限凸が進んでおりません……。まあ、イベントをやらないからっていうのもあるんでしょうが、これでは流石に宝の持ち腐れ。頑張ってアニマ取らなきゃですね。がんばるぞい。

 

それから、これは余談ですが、かなり前にモブで出てくるドラフ族の女の子が可愛いとぼやいていたのですが、今回のテイルズコラボイベで、漸くその子に会うことができたので、一応貼っておきます。

 

 

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では、今日はこの子を眺めてhshsしながら、〆ますね。

今回のテイルズコラボイベントのことは、気が向いたら書きますん。

それでは、また。

 

 

終わり。

躾による体罰と虐待について。

最近の子供の虐待や躾によるニュースが増えていますね。それにより「躾と虐待の線引き」が毎度話題になっています。が、その虐待報道がされるたびに、何やらもやもやとした感情が出てきて。

こういう躾の話になると「親の立場にならないと分からない」「子供を持たないヤツにとやかく言われたくない」と言う人がこぞって出てくるんですが、じゃあ親の立場になっていない人はこの話の土台にも乗れないんでしょうか。

まあ、そんなバカな事がある訳がないとボク自身は思っていますので、気にせず思ったことを書いていきますけれども。

 

さて、この躾・虐待関連のニュースを見ていていつも思うのですが、TVのコメンテーターの方たちがみんなして「躾と虐待の線引きは難しい」と言っていますね。確かに何が間違いで何が正しいのか、それは親の個々の考えなので一概にこうとは言えない問題です。でも、なぜそんなに難しいのか。なぜ、なかなか「これだ!」という答えが出ないのか。それは、意見を言う側がみんな"親側の意見"だからだとボクは思うんですよね。

TVに出ているコメンテーターの方だって、専門家の方だって、きっと子供を持つ一親の立場の方が大半でしょう。日常的に手をあげられる子供は可哀想、でも親御さんの気持ちも分かる……。みんながみんな揃ってこう言って、結局は堂々巡りの状態。

でもそんなの、当たり前なんじゃないでしょうか。親側の意見をずっと語っていても、答えなんて見つかる訳がない。言い方は悪いですが、結局は親の気持ちを優先してしまうのですよね。それが悪いと言うわけではないですが、それじゃあ解決なんて無理だろう、って話です。

ボクがいつも思うのは、なぜ『虐待された側の意見』というのは出てこないんだろう、ということ。この件になると出てくるのは決まって"親側の意見"。虐待された側の意見はなぜ取り上げないのでしょうね。

まあ、小さい子供に「虐待についてどう思う?」なんて聞くのは無理がありますが、何も虐待されて育っているのは今の子供だけではありません。昔に虐待されて育った子供が今は大人になって社会に出ている人だって居るはずです。

そんな人たちが、今はどんな性格の大人になって、どんな気持ちで日々を過ごしているのかとか、親に対してどんな思いを抱いているのかとか、虐待された出来事が生きる上でどのような弊害となっているのか、など、もう少しきちんと取り上げるべきだと思います。

ボク個人としては、虐待された側の気持ちが公にならないから、だから線引きが難しいのではないか、と思うんですね。実際、ボク自身"虐待された側"なんですが、こちらから言わせてもらえば線引きはそんなに難しいことではないからです。

 

ボクとしては、基本『躾・教育として実行する体罰は意味がない』と思っています。特に子供が小さければ小さいほど、叩いても殴っても効果はないだろうな、と。現にボク自身、叩かれて教わったことはほとんどと言っていいほど覚えていないからです。

どんな理由があって叩かれていたのか、全く分からないのです。自分が悪いことをしたのか、それとも親の虫の居所が悪かったのか、ついカッとなって叩いてしまったのかが、未だに分からないのです。

でも、意味無く叩かれるなんてことはたぶん無いとは思うんです。叩かれる理由が、小さかろうが大きかろうが、例えすごくつまらないことだったとしても、何かしら訳があったのだと思っています。なので、それだけ親が怒るほどに何かやらかしてしまったのだろうな、という思いはあります。

すごく漠然とした罪の意識なんですが、そう思ってるほうが自分の気持ちの中で一番楽なんですよね。だって、それ以外に原因があるとするならば、それは理不尽の何物でもないので。ただただ悲しいじゃないですか。そんなのイヤです。

ボク自身、ガスホースやベルトや靴べらや物差しという色んな物で日常的に叩かれて学んだことと言えば「叩かれると痛い」ということと「うちのオカンはヒステリックで恐い」ということだけです。

うちの親がただ子供に恐怖を植えつけたかったのであれば、作戦は大成功ですね。効果は抜群です。でももし『生活していく上での大切なルールやマナー』を教えていたのであれば、完全な大失敗と言えます。

確かに、手をあげれば、子供はちゃんと親の言うことを聞くようになります。でもそれは、ちゃんと善悪を理解しているからではなく、親を怒らせると恐いからです。言うことを聞くようになる"だけ"です。返事だけは良い新人と一緒です。親の目の届かないところでは確実にやります(やりました)。

なので、何かを教えるために体罰というのは基本的に効果は低く、よって不必要なものだという認識でいます。

 

ただ……時には必要になる場合もあると思っています。例えば、子供が他の誰かと喧嘩をして暴力を振るってしまった時。当然、子供を叱りつけますよね。そして親御さんの中には、殴られる痛みを知らないから、平気で人を傷つけるんだ、と思う方もいると思います。では一度、殴られる痛みを教えてやらなければ……と、一発ぶん殴るお父さんは今も昔もおられるんじゃないでしょうか。

ボクとしては、この考えは間違ってはないと思うんです。もしかしたらもっと他にも良い方法はあるかもしれませんが、痛みを知れば人に優しくなれると言いますし、こういう躾方もアリなんじゃないかと。

でもボクは、一発ぶん殴って「自分のやったことを反省しろ!」で終わりにするだけではいけないと思います。基本的に誰かを殴ることは悪いことです。悪いことをしたら「ごめんなさい」ですよね。躾のためとは言え、殴ってしまった子供に対して親がまず謝る。ここまでが『躾』なのではないでしょうか。

親が殴ったことを謝らなければ示しがつきませんし、そもそもは「殴ることは悪いこと」ということを教えるためにやった行為ですから、悪いことをすれば謝るのは当たり前のことです。でも、その当たり前のことができていない親御さんって結構いるのではないかと思うんです。

例え、上記のように理由があって子供に手をあげてしまった場合でも、ついカッとなって手をあげてしまった場合でも、いいです。それはもう仕方のないことです。人間ですし、衝動的にやってしまうことってあると思います。

でも、悪いことをしたら謝ってほしいんです。親の威厳が、とか、子供に頭を下げるなんてみっともない、とか、そんな気持ちは今すぐ捨ててください。謝るだけでかなり違うと思うのです。

 

ちょっと考えてみてください。もし自分が年をとって、若い頃と比べて知能も低下し、体力も衰えてしまったとき、自分の子供や何らかの施設にお世話になることになったとします。

仕方のないことですよね、年齢によってできないことが増えていくのは。ですが、周りはそんな年をとった自分に些細なことで腹を立てます。

「もう!一人で出歩かないでって何度も言ってるでしょ!」

「薬が飲みづらい?そんな子供みたいなこと言わないで、さっさと飲んじゃって!」

最初は大きな声で怒鳴るだけでしたが、そんな日々の苛々が募り、最終的に自分が何かいけないことをしてしまったとき、周りの人が自分の頭を叩いたり、手や腕・足を力いっぱい抓るようになってしまったら、どんな気持ちになりますか。

痛いって言っても、やめてくれなかったら。

 

何かを教えるために体罰は必要……と、それを『正当化』するならば、このお年寄りに対しての周りの行動も『正当化』されるはずですが。

 

痣は時が経てば治ります。

打撲や骨折は病院でちゃんと治療すれば治ります。

でも心の傷は治りません。

時に化膿し、血を出し、膿を出し、ずっと痛みます。

運良く傷口が塞がったとしても、傷跡は一生残ります。

どんなに頑張っても消えません。

お医者さんでも治せません。

 

体罰を『正当化』しないでください。

 

ちなみにうちの親は、未だ謝ってくれていません。悪いことをしたということすら感じていないようです。手をあげていたのは母親で、最近分かったことですが、そのことを父親も知っていました。元警察官ですが、ボクらがそんな思いをしているのを知っていて、何にもしない人でした。

どうやら母親と同じく、子供に対して手をあげること=悪いこと、という認識がないようです。我が家のお上は、だいぶ前から腐りきっていたようです。今も子育てに奮闘している世の親御さん方には、うちの親のようには決してなってほしくないですね。

 

どこで見たのかは忘れましたが、前に見た記事でのコメントで、すごく同感した言葉がありました。

『もし本当に、殴ることで相手の考え方を変えたり諭すことができるのであれば、私は虐待している人をボコボコに殴って、虐待をやめさせることができるかどうか試してみたいです』

ぜひともやってみたいですね。

 

最後に。

知っていますか。子供って、どんなに酷いことをされても、親のことは大嫌いになれないのですよ。どんなに痛いことをされても、どんなに恐いことをされても、やっぱり好きなのです。嫌いになれるものなら、なってみたいです。いっそ嫌いになれたらどんなに楽かと思うのですが……どうしてもできないのですよね。

不思議です。何でなんでしょうね。

遺伝子か何かが関係しているのでしょうかね。

 

 
 
おわり。