じゆうちょう

大切にしたいから、忘れないために書いてます。普通なことから小難しい話題まで。雑多です。

躾による体罰と虐待について。

最近の子供の虐待や躾によるニュースが増えていますね。それにより「躾と虐待の線引き」が毎度話題になっています。が、その虐待報道がされるたびに、何やらもやもやとした感情が出てきて。

こういう躾の話になると「親の立場にならないと分からない」「子供を持たないヤツにとやかく言われたくない」と言う人がこぞって出てくるんですが、じゃあ親の立場になっていない人はこの話の土台にも乗れないんでしょうか。

まあ、そんなバカな事がある訳がないとボク自身は思っていますので、気にせず思ったことを書いていきますけれども。

 

さて、この躾・虐待関連のニュースを見ていていつも思うのですが、TVのコメンテーターの方たちがみんなして「躾と虐待の線引きは難しい」と言っていますね。確かに何が間違いで何が正しいのか、それは親の個々の考えなので一概にこうとは言えない問題です。でも、なぜそんなに難しいのか。なぜ、なかなか「これだ!」という答えが出ないのか。それは、意見を言う側がみんな"親側の意見"だからだとボクは思うんですよね。

TVに出ているコメンテーターの方だって、専門家の方だって、きっと子供を持つ一親の立場の方が大半でしょう。日常的に手をあげられる子供は可哀想、でも親御さんの気持ちも分かる……。みんながみんな揃ってこう言って、結局は堂々巡りの状態。

でもそんなの、当たり前なんじゃないでしょうか。親側の意見をずっと語っていても、答えなんて見つかる訳がない。言い方は悪いですが、結局は親の気持ちを優先してしまうのですよね。それが悪いと言うわけではないですが、それじゃあ解決なんて無理だろう、って話です。

ボクがいつも思うのは、なぜ『虐待された側の意見』というのは出てこないんだろう、ということ。この件になると出てくるのは決まって"親側の意見"。虐待された側の意見はなぜ取り上げないのでしょうね。

まあ、小さい子供に「虐待についてどう思う?」なんて聞くのは無理がありますが、何も虐待されて育っているのは今の子供だけではありません。昔に虐待されて育った子供が今は大人になって社会に出ている人だって居るはずです。

そんな人たちが、今はどんな性格の大人になって、どんな気持ちで日々を過ごしているのかとか、親に対してどんな思いを抱いているのかとか、虐待された出来事が生きる上でどのような弊害となっているのか、など、もう少しきちんと取り上げるべきだと思います。

ボク個人としては、虐待された側の気持ちが公にならないから、だから線引きが難しいのではないか、と思うんですね。実際、ボク自身"虐待された側"なんですが、こちらから言わせてもらえば線引きはそんなに難しいことではないからです。

 

ボクとしては、基本『躾・教育として実行する体罰は意味がない』と思っています。特に子供が小さければ小さいほど、叩いても殴っても効果はないだろうな、と。現にボク自身、叩かれて教わったことはほとんどと言っていいほど覚えていないからです。

どんな理由があって叩かれていたのか、全く分からないのです。自分が悪いことをしたのか、それとも親の虫の居所が悪かったのか、ついカッとなって叩いてしまったのかが、未だに分からないのです。

でも、意味無く叩かれるなんてことはたぶん無いとは思うんです。叩かれる理由が、小さかろうが大きかろうが、例えすごくつまらないことだったとしても、何かしら訳があったのだと思っています。なので、それだけ親が怒るほどに何かやらかしてしまったのだろうな、という思いはあります。

すごく漠然とした罪の意識なんですが、そう思ってるほうが自分の気持ちの中で一番楽なんですよね。だって、それ以外に原因があるとするならば、それは理不尽の何物でもないので。ただただ悲しいじゃないですか。そんなのイヤです。

ボク自身、ガスホースやベルトや靴べらや物差しという色んな物で日常的に叩かれて学んだことと言えば「叩かれると痛い」ということと「うちのオカンはヒステリックで恐い」ということだけです。

うちの親がただ子供に恐怖を植えつけたかったのであれば、作戦は大成功ですね。効果は抜群です。でももし『生活していく上での大切なルールやマナー』を教えていたのであれば、完全な大失敗と言えます。

確かに、手をあげれば、子供はちゃんと親の言うことを聞くようになります。でもそれは、ちゃんと善悪を理解しているからではなく、親を怒らせると恐いからです。言うことを聞くようになる"だけ"です。返事だけは良い新人と一緒です。親の目の届かないところでは確実にやります(やりました)。

なので、何かを教えるために体罰というのは基本的に効果は低く、よって不必要なものだという認識でいます。

 

ただ……時には必要になる場合もあると思っています。例えば、子供が他の誰かと喧嘩をして暴力を振るってしまった時。当然、子供を叱りつけますよね。そして親御さんの中には、殴られる痛みを知らないから、平気で人を傷つけるんだ、と思う方もいると思います。では一度、殴られる痛みを教えてやらなければ……と、一発ぶん殴るお父さんは今も昔もおられるんじゃないでしょうか。

ボクとしては、この考えは間違ってはないと思うんです。もしかしたらもっと他にも良い方法はあるかもしれませんが、痛みを知れば人に優しくなれると言いますし、こういう躾方もアリなんじゃないかと。

でもボクは、一発ぶん殴って「自分のやったことを反省しろ!」で終わりにするだけではいけないと思います。基本的に誰かを殴ることは悪いことです。悪いことをしたら「ごめんなさい」ですよね。躾のためとは言え、殴ってしまった子供に対して親がまず謝る。ここまでが『躾』なのではないでしょうか。

親が殴ったことを謝らなければ示しがつきませんし、そもそもは「殴ることは悪いこと」ということを教えるためにやった行為ですから、悪いことをすれば謝るのは当たり前のことです。でも、その当たり前のことができていない親御さんって結構いるのではないかと思うんです。

例え、上記のように理由があって子供に手をあげてしまった場合でも、ついカッとなって手をあげてしまった場合でも、いいです。それはもう仕方のないことです。人間ですし、衝動的にやってしまうことってあると思います。

でも、悪いことをしたら謝ってほしいんです。親の威厳が、とか、子供に頭を下げるなんてみっともない、とか、そんな気持ちは今すぐ捨ててください。謝るだけでかなり違うと思うのです。

 

ちょっと考えてみてください。もし自分が年をとって、若い頃と比べて知能も低下し、体力も衰えてしまったとき、自分の子供や何らかの施設にお世話になることになったとします。

仕方のないことですよね、年齢によってできないことが増えていくのは。ですが、周りはそんな年をとった自分に些細なことで腹を立てます。

「もう!一人で出歩かないでって何度も言ってるでしょ!」

「薬が飲みづらい?そんな子供みたいなこと言わないで、さっさと飲んじゃって!」

最初は大きな声で怒鳴るだけでしたが、そんな日々の苛々が募り、最終的に自分が何かいけないことをしてしまったとき、周りの人が自分の頭を叩いたり、手や腕・足を力いっぱい抓るようになってしまったら、どんな気持ちになりますか。

痛いって言っても、やめてくれなかったら。

 

何かを教えるために体罰は必要……と、それを『正当化』するならば、このお年寄りに対しての周りの行動も『正当化』されるはずですが。

 

痣は時が経てば治ります。

打撲や骨折は病院でちゃんと治療すれば治ります。

でも心の傷は治りません。

時に化膿し、血を出し、膿を出し、ずっと痛みます。

運良く傷口が塞がったとしても、傷跡は一生残ります。

どんなに頑張っても消えません。

お医者さんでも治せません。

 

体罰を『正当化』しないでください。

 

ちなみにうちの親は、未だ謝ってくれていません。悪いことをしたということすら感じていないようです。手をあげていたのは母親で、最近分かったことですが、そのことを父親も知っていました。元警察官ですが、ボクらがそんな思いをしているのを知っていて、何にもしない人でした。

どうやら母親と同じく、子供に対して手をあげること=悪いこと、という認識がないようです。我が家のお上は、だいぶ前から腐りきっていたようです。今も子育てに奮闘している世の親御さん方には、うちの親のようには決してなってほしくないですね。

 

どこで見たのかは忘れましたが、前に見た記事でのコメントで、すごく同感した言葉がありました。

『もし本当に、殴ることで相手の考え方を変えたり諭すことができるのであれば、私は虐待している人をボコボコに殴って、虐待をやめさせることができるかどうか試してみたいです』

ぜひともやってみたいですね。

 

最後に。

知っていますか。子供って、どんなに酷いことをされても、親のことは大嫌いになれないのですよ。どんなに痛いことをされても、どんなに恐いことをされても、やっぱり好きなのです。嫌いになれるものなら、なってみたいです。いっそ嫌いになれたらどんなに楽かと思うのですが……どうしてもできないのですよね。

不思議です。何でなんでしょうね。

遺伝子か何かが関係しているのでしょうかね。

 

 
 
おわり。