じゆうちょう

大切にしたいから、忘れないために書いてます。普通なことから小難しい話題まで。雑多です。

自分の気持ちは自分のもの。

ここ最近は私用で実家に帰ることが多くなって、その度に色々と考えてしまうことが出てきて、久々に情緒不安定になったりして、若干大変な1週間でした。

主に昔の自分を思い出したりして、昔はこんなこと考えてたな、とか、こういうところは今も変わってないな、なんて思ったりして、一人で物思いに耽ったりして。

 

つい最近気づいたのは『自分の気持ちは自分だけのもの』ということ。大切にして良いことだということ。それを人に与えるか与えないかは自分が決めることで、決して他者がコントロールして良いものではないということ。

どんなに近しい人間であったとしても、他者が土足で介入し、感情や思いを抑圧したり、自分の思い通りに操作するものではない、と。

他の人にとっては、そんなの当たり前なんでしょうけど、ボクには抑圧されることや操られることが"異常なこと"だとは微塵も思わなかった。自分の気持ちより優先すべきことがあったから。

親の気持ちが一番。その次が恋人、その次が友達。自分の気持ちなんて、二の次、三の次、四の次。自分の気持ちは、紛れもなく自分の気持ちなんだけど、自分のものじゃない。それが当たり前でした。

目標も、まずは親が望む子供となること。そして、周りが望む相手となること。それがボクが生きていく唯一の術でした。自分が周りの望みを叶え、叶ったらもう必要ないと捨てられ、次にボクを必要とする人のところへ転々としました。

そんなことを繰り返していくうちに、何事にも『自分はこの場に必要かそうでないか』で物事を考えるようになり、相手の態度や表情で察し、必要ないと言われれば離れ、必要だと言われれば必要なくなるまで側に居た。それが例え、金目当てであっても、身体目当てであっても。

時には優しい人がいて「お前はどうしたい?」と聞いてもらえたことがあったけど、ボクは自分の気持ちを伝える術を知らなかったから、多数が望むであろう言葉を予測し、察知し、息を吸うように自分の気持ちにウソをついていた。それがボクの日常でした。

 

正直、虚しかったです。自分の人生なのに、自分の人生じゃないみたいで。ボクの人生は、誰かの人生の登場人物止まりだった。この頃は『本当に1人につき1人生(いちじんせい)が設けられているのか?もしかしたら、自分の人生が無い人もいるんじゃないか?モブとして一生を過ごす人間もいるのではないか?』と、本気で思ってました。

まさにボクがそうだったから。でも、どうやらボクにもボクの人生はあったみたいです。良かった。ボクにもボクの一生というのがちゃんと割り当てられていて、ボクもボク自身の気持ちを大切にしても良い権利があったんです。

それを知ったとき、嬉しくて鳴きました。ワンワンッ!!

違います。泣きました。涙がポポロですよ。

 

自分を大切にするってこういうことだったんだと知り、今は昔と比べてだいぶ優先順位が変わりました。時と場合にもよりますが、きっとこれってみんなそうなんですよね?みんな、時と場合を使い分けているのだ、と相方さんが教えてくれたので、きっとそうなんでしょう。

 

自分の気持ちは自分のもの。自分が持っていて良いもの。

持っていて良いって素晴らしいです。

 

 

おわり。