じゆうちょう

大切にしたいから、忘れないために書いてます。普通なことから小難しい話題まで。雑多です。

怒らず、お願いするつもりで、平和に。

先ほどに引き続き、メモの内容をば。

『自分の、他人から嫌われていると感じるスイッチが異常』というような内容でした。今回はそれについて書いていこうと思います。

昔のボクは、誰に対しても全力で接して、いつも120%で対応していました。周りに気を使い、相手によって自分の立ち位置を変えたりして。でもそれをずっとやってるといつかはボロが出るんです。本当の自分がついポロッと顔を出して、嫌われて終了。今までの苦労が水の泡になるんです。結局その繰り返しで、なかなか友達ができなかったんです。いつも嫌われて終わる。

ボクは基本、親が中心で親を基準として生きています。結婚してる今でもその概念は残っていて、結婚して離れているのにも関わらず、見えない鎖で繋がれているような状態です。親の基準とは『とにかく自分を不快にさせる者は全部悪。嫌い』です。小さい頃の兄とボクの愛情格差や小さい頃のボクが嫌いだったという親の発言、そしてそれを直に感じていた幼少期。

嫌われたら終了、というのはそこからきています。嫌われるとどうなるかを、親から身を持って学んだのです。そしてその"嫌われた"という判断。線引きですね。どこから嫌われてて、どこまでがセーフだったのか。それが、ボクの中では"怒られること"だったのです。

普通ならば、ただ怒られただけでは普通に"自分が悪いことをした"と判断できるでしょうが、ボクの場合は手をあげられていたため、痛いことをする=ボクのことが嫌いだからという理由に摩り替わっていったんです。

もちろん、自分に非があることもわかっていますよ。でも、自分のどういうところがダメだったのかは痛みでかき消されてしまっていました。痛いことをするって、そういうことなんですよ。ただ叱る・怒ることに痛いことは必要なのか。本当に言いたい・伝えたいことをかき消してまで、手をあげる必要があるのか。ボクは知りたいです。

それに「ごめんなさい」という言葉は絶対に許してもらえる言葉じゃなかったことをボクは早くから知ってしまった。ちゃんと謝っても許してもらえないこともあるんだと。なので、人が怒るスイッチ。ボクにはそれがわかりません。わからないから、120%で対応するんです。120%って100%を超えてますよね。子供以上、大人以上、自分以上で接するんです。

親に対して、120%が標準でした。それだと愛してもらえたんです。実の親が120%なら他人は最低でも120%、それ以上でないと嫌われてしまう。嫌われれば終わりです。実の親には愛してもらえないという終わりがある。ってことは、他人なら尚更。という方程式のようなものを作ったんです。

ただ、いつかは限界がきますよね。ずっと120%はどう考えても無茶です。でもやってました。女性に対してはお姫様のように、男性に対しては王子様のように、両親に対しては王様・王女様に接するかのように立ち回っていました。

限界が来れば終わりにしてました。だって、本当はそんな自分じゃないんですから。バレてしまってはしょうがない、とでも言うかのように、相手の前から去っていました。本当の自分を好きになってもらえるはずがない、だって実の親ですら愛せなかったんだし、と……ほんと、今考えてもおかしいですね。

でも自信がなかったんです。素の自分を受け入れてもらう自信が。

 

今はそこまでではありません。相方さんとは出会う前からボロを出していたんです。なぜかというと、出会いはチャットだったからです。文字だけの世界で、自分の思ってることや感情も文字のみ。

顔も見えないから顔色を窺うということもしなくて良いですし、淡白でとても心地が良かったんです。それでも好きだと言ってくれた人が居て、それでやっと、120%を辞めることができたんです。

「自分を愛せない人は誰も愛すことができない」ってよく言いますよね。でもあれって違うと思うんですよね。誰かに好きって言ってもらえて、初めて自分が好きになるんです。自分を好きになるのは後からでいいんです。まず自分を好きになってください、なんて言葉並べてる本やサイトは、言葉は悪いですがはっきり言ってクソです(言いすぎ)。そんなことできたら最初っからやってるっての。

それにこの言葉、実は違いますよね?誰が履き違えて、自分に自信のない人への言葉として応用したんでしょうか。これって、ご自愛のほうの愛なんですよね。簡単に言うと「自分の身体や心を思いやれない人は、他の誰かの身体や心を思いやることなんてできない」ということ。

自分の"無理"や"限界"を知れば、相手に無茶もさせることなく大切にできるよってことなんですよね。これなら納得です。

おっと、脱線してしまいました。

自分でも、怒りの感情をぶつけられただけで嫌われている、終了、という飛躍した考えは捨てるべきなのだろうな、と思います。ただ、もうこれは一種の洗脳のようなものでして……なかなかその考えを変えることができないでいるんですね。

何かいい案はないものですかね。でも結局、怒るというのは自分の常識や価値観の主張+押し付けですよね。叱るは教え。これがごっちゃになってる人は多いと思います。それが押し付けなのか、教えてくれているのかを見極めることができれば、大丈夫なような気がするんですが……そう考えると、未だにボクに対して真摯に向き合って叱ってくれるような人が現れていないということになるんでしょうかね。

相方さんはボクが怒られるのがニガテだとわかってくれているので、注意くらいで留めておいてくれています。それでボクもちゃんと従いますし、相方さんも理不尽だったり変なことを言ったりしない人なので、それで十分なんですよね。特に、これは相方さんの性格のお陰かもしれませんが、言い方は終始穏やかでして、注意と言うよりかはお願いに近いんです。それがとても良いです。お願いされちゃあしょうがない、となるんです。

まあこれは異性相手だから、というのもあるでしょうけど、みんなが相方さんのように穏やかにお願いのような注意をしてくれたらなあ……と思ってるんですが、それこそ無茶ですね。ハハッ。

 

色々考えて、今も頭パンクしそうなんですが、とりあえず自分が穏やかに接してれば周りも穏やかにならないかなあ、なんて甘い考えを抱きつつ前に進んでいこうと思います。 

 

 

おわり。